2007年11月28日水曜日

錯視と爆笑問題


職場の先生から面白いテレビが放送されるとお聞きしたので、昨夜、見ていました。

爆笑問題の二人が錯視で有名な北岡明佳先生を訪問するという番組。
詳細はNHKの11月27日放送分 → こちら

私の職場ではちょうど先週、文化祭があり、研究室でもたくさんの錯視をPCで見学者に見せていたの。
もちろん北岡先生の有名なぐるぐる回る蛇の絵もありましたよ。

そんな行事があったので、爆笑問題が錯視をどのように料理するのかに興味がありました。
爆笑問題(というか大田光さんのほう)も、初めは一般人のように「おー、すごい」という反応がありました。
そりゃ、当然だわ。あんなにたくさんの錯視を見たら、誰だって感激するのは当たり前。

でもだんだん時間が経過してくると、爆笑問題の大田さんは、ただ錯視のことだけではなく、自分の意識の問題として捉えてくるのよね。
「我思う、ゆえに我あり」ではなくて、「我思う、ゆえに我見える」というような哲学的問題として考えていくのよ。

ところが北岡先生は爆笑問題のそういう問いには答えずに、というか、そんなことは考えたこともなかった、というようで、先生ご自身が単に興味があるので、そしてただ好きなので錯視の研究をしている、というの。
哲学とはまるで相容れないような感じを受けたわ。

お二人の発想の原点がまるで違うのよね。

だいたい、研究者という人種はそういう人達なのかもしれないな。

私の所属している職場でも、ある研究者は
「壁にある電気のスイッチを押す時、どうして、腕がさっと伸びるのか?」なんてことを
真剣に研究テーマとするわけよ。
そういうことって、普通は考えないよね。いちいちスイッチを押すときにそんなことを考えていたら、時間がかかって仕方ない。
でもそういう腕の動きやそれを支配する脳の仕組みを面白がって、研究テーマとしちゃう研究者って、頭の中がどうなっているのか、そちらのほうをむしろ知りたいくらいだわ。

でもね、錯視にしろ腕の伸ばし方の研究にしろ、それって世の中が平和だからできる研究なのよね。
戦争になったりしたら、そういう研究にお金はかけられないでしょう。
どうしたら効率的に相手を攻撃できるミサイルを作るとか、そんな研究しかできなくなるかもしれない。
だから、研究者にとっては(もちろん一般人にとっても)平和の問題というのが、一番大切なのではないかしら。

この番組の最後で、北岡先生が(言葉は正確ではないけど)、「錯視というのは結局は心の問題」だとおっしゃったの。

この「心」というのがこれまた難解なもので、科学者の間では「心」=「脳」=「物質」という公式が前提としてあると思うのだけど、でも一般人はそうは考えない。
「心」は「心」であって、「脳みそ」とは別として捉えることが多いよね。

つまり北岡先生の言う「心」と爆笑問題が考える「心」とは違うものだと思うの。
この場合の「心」は、研究者の専門用語のほうの「心」だと思うのだけど、NHKもそこまでは追求していなかった。
それを追求していたら、30分番組では足りないものね。

うーん、爆笑問題の番組を見たら、もう少し錯視のことが分かるのかと思ったけど、それは全くの思い込みだったわ。

そんなに簡単に解決できたなら、研究者の立場が危うくなってしまいますものね。

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