2013年7月15日月曜日

「日本絵画名品比べ 5」

4月からスタートした「日本絵画名品比べ」も5回目の受講となりました。

はっきり言って、内容がどんどん専門的になってきて、深化しています。
ついていくのが大変・・・・。
そのせいか、受講生の出席率も低下しているようです。
大学の美学専攻レベルではないかしら、と思うのは私だけかしら。
歴史のことも、古文書を読むことも、あまり普段は適当にしているので、良い刺激にはなりますが、うーむ、難しい!

とばかり言ってはいられないので、自分なりにまとめているのがこのブログです。

さて、前回のこのセミナーは長谷川等伯と狩野永徳の比較でした。
それぞれの絵(障壁画など)を見て、その違いを教えていただいたので、私のような絵画にはド素人の人間でも、まぁ少しは理解ができました。
とくに講師の黒田泰三さん(出光美術館学芸部長)は長谷川等伯の大ファンなので、お話にも力が入っていました。

今回は狩野派の後継者たちのお話。
数多くの狩野派の弟子たちの人物像や、描いた作品の特徴を比べるというお話だったのですが、非常に難しく、私には消化不良気味でした。

私は狩野派というと、永徳や探幽くらいは知っていましたが、それ以外の人々、たとえば永徳よりもっと祖先の人々とか、永徳の子どもたち、そのまた子孫たちとなると、誰が誰だか分からなくなってしまうのです。

おまけに名前がみんな似ているのですよね。
正信、元信、光信、孝信、尚信、安信・・・・・。
同じ一族なので似たような名前になるのは仕方がないのですが、それぞれの人がどの作品を描いたかは見分けがつきませんでした。

それでもごく簡単に説明してみると

狩野派の中心的存在で、権力と結びついて勢力を広げて行った永徳。

その永徳の突然死の後に現れたのは、
お父さんの永徳とは対照的に優美な作品を生んだ長男の光信。
お父さんの豪快な作風を受け継いだ二男の孝信。
狩野派の江戸進出のさきがけとなった弟の長信。
そして孫の守信(探幽)
光信の家系に養子になった安信。
他にもたーくさん・・・・・。

狩野家の家系図を見ながらのお話でした。

私がその中で面白い存在だったと思ったのは、光信という人です。
この人は永徳の長男で、探幽のおじさんに当たるのですが、どういうわけか一家の中ではかなり嫌われていたようです。

若い頃はお父さんの永徳と一緒に安土城の障壁画を描いたり、信長や秀吉にも可愛がられていたようです。

園城寺勤学院(三井寺)の障壁画は光信の作で有名です。1600年に描かれたそうで、このとき光信は36歳でした。

【参考文献】
「もっと知りたい 狩野永徳と京狩野」 成澤勝嗣 著
 
     
(先生のお話だけでは理解できないところは、図書館で本を借りて、参考にしています。)
 

お父さんの豪快な絵に比べると、穏やかで良い感じがするのですが、どういうわけか、世間からは絵が下手だとか、ぼろくそに言われて、それがなんと死後300年もそういう評価をされ続けていた人だそうです。

というのも、この光信という人は、長谷川等伯とつきあっていたことがあるようで、それで嫌われたのかもしれないというお話でした。

ちなみに光信という人は、江戸から京都に帰る途中(1608年)、桑名で43歳で亡くなってしまったそうで、なんとも可哀想な人だったのですね。

絵画は好きに見ればそれでよい、と思いますが、でも作家の人生や、そのときの社会状況なども分かっていると、もっと面白く観賞できるのですね。


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